春陽会アーカイブ・東京研究会 共同企画 講演会
佐々木正俊氏(ギャラリー惣代表・中川一政美術館指導員)
「晩年の中川一政先生」
日時:2017年5月28日(日)13時~15時30分
会場:真鶴町立中川一政美術館
佐々木氏は春陽会創立メンバーである中川一政の、晩年の秘書を21年間務めておられた。
昭和42年、佐々木氏が吉井画廊に入社してすぐ中川夫妻に出会い、45年には、真鶴の中川一政の家に住み込みで働くことになった。佐々木氏24歳、中川一政77歳。
講演は中川一政との出会いから始まった。
「箱根の景色を探しに行くと言い出して、朝、お弁当持って、おむすび持って、車に乗って、箱根をあちこち走り回るんですよ。最初は二子山を4~5枚描いてどうも納得しないらしくて。もっといいところがあるんじゃないかと色々探し回って、そして最後に芦ノ湖スカイラインからみた駒ケ岳をみつけてここがいいって、そこにだいたい16年ぐらいずっと通い詰めてました。
それで現場で描くのを大事にしてたもんで、現場じゃないと描かない。静物でも、ものを見ないと描かない。だいたい現物を見ないと描かない。
駒ケ岳も最初20号くらいの絵から描き始めて、段々と大きくして最後に100号。100号を6枚くらい。そのときは90くらいで、90歳すぎた頃には駒ケ岳はもう取り組みが終わったんですね。あとは部屋の中で静物を描くようになりましたね。でも部屋の中でも向日葵なんかは、大きいのは50号、60号って描いてましたね。
70代、80代はうんとお元気で、怪物と思っていいくらい。90過ぎてアトリエで絵を描くようになってからはときどき腰かけて描いてました。それまではもう絶対腰かけないで、アトリエでも立ってましたね、座らないで立って描いた。立って描かないとヘソした三寸の丹田に力が入らない。丹田に力が入らないと、いい絵は描けないんだって、だから自分は立って描くんだって言ってました。」
講演は、日常生活や制作に対する姿勢、ご家族のお話や先生を訪ねてくる変わった訪問者、健康の話など多岐にわたったが、それぞれに先生の魅力あふれる姿が浮かぶものだった。
最後に、司会の畠山氏から、「佐々木氏から頂いたプロフィールのお名前が佐々木惣助となっていたことについて教えて下さい。」と質問があり、「惣という字は総合の総と同じ。総ての仕事を助けてくれるという意味をこめて、先生が新聞のコラムに自分のことを書いたときに使われた名前だ」と少し照れたようにお話された。
大正11年の春陽会結成に客員として参加して以来、会の中心メンバーであり、戦後日本美術界を代表する偉大な洋画家である中川一政。そんな一政の晩年を一番近くで支えてきた佐々木氏に、一政の絵に囲まれた美術館の中で講演をして頂けたことは、春陽会の研究生、そして研究生以上に集まった会員にとって、本当に刺激となり貴重な時間となった。
春陽会東京研究会 中台ゆう子